中平卓馬、による記録
今、写真家・中平卓馬の「なぜ、植物図鑑か」という本を読んでいる
ずいぶん前に書かれた本なのだが、
その一言一句が新鮮な鋭さを持ってうちよせてくる
私は吟味しながら言葉をたどる
それらはとてもダイレクトに確信にせまっているように感じる
そして、それは彼の写真においても同様のことがいえるだろう
中平卓馬の写真を初めてじっくりと見たのは、つい先日のことだった
中平卓馬「Documentary」展
ホンマタカシ「New Documentary」展と同日に始まったこの展示は
BLD GalleryとshugoArtsの2カ所で同時に開催されている
展示の写真は同じなのだが、見せ方が違うと感じ方も違う
真っ白い壁の目線の高さに2段ずつ、びっしりとA4サイズのプリントが貼られていた
植物、猫、ホームレスのおっさん、看板、クラゲ、また植物
と特に珍しいわけでも何でもないものが写っている
同じようなものがくり返し登場したりもする
それらを見ていると「この世にある全てのものは等価値である」と思えてくる
また、あくまでもこれは写真という物質であり、
世界は1枚の写真の中には収まりきれない
フレームの奥に、延々と広がり、更に刻一刻と変化していくのだと感じる
奥に部屋には、昔パリで撮影した写真の展示があった
鳥肌がたってしまうほど、かっこいい
そこには、場所や時代の違いや作者の変化もあるだろうが、
各々に「その場所そのもの」であることを感じた
最近のお気に入りだけに絞っての展示らしく、BLDに比べると随分展示数が少ない
更に1つが90×60と随分大きく引き延ばされているため
より1枚1枚の写真にじっくりと向き合うことができる
中平さんの目線にもっと近づく感じだった
作品を見ながら「写真の強さ」という言葉が頭に浮かんだ
それぞれに何か引力のようなものがあって、
それがぐっと目線をつかんでくる
しかも、それは対象となったものだけから発せられているわけでは無いように感じる
彼の「言葉」からも「写真」からも、何かしら同質のものを感じる
この感じは何なんだろうか
単純に考えれば、どちらも彼自身から発せられる「表現」なのだから当たり前といえば当たり前のことだ
しかしそれ以上に、そこには「中平卓馬」という人物を飛び越えた
生モノとしての世界そのものがあるように感じてならない
個人の情や思想を超えたもっと大きな、もっと尊いものがあるように感じられる
それは形容詞化すべきではないことのようにも思える
言葉で断定するには、あまりに複雑で、あまりにシンプルであるから
「中平卓馬」は写真や言葉を媒介としてそれを示そうとする
あくまでも媒介でしかなく
あくまでも媒介であるべきだと言っている
そこに個人は介せずに「記録をすること」、それが表現をすることではないか
しかも、記録することはそのものになることではない
なり得ないのだ
あくまでも、写真は写真であり、言葉は言葉である。
ふと、昔読んだ本に書かれていた短い物語を思い出した
ある老人が泣きながら書物を燃やそうとしていた
何故燃やすのかを問いただすと、彼は答えた
「ここには究極の『教え』が書かれている。私はこの手でこの素晴しい『教え』を燃やさねばならないのだ。」
「何故、そのようなことをするのですか?」
「それはね、この『教え』を人々に伝えるとしよう。そうすると、人々はそれをどうにか確実なものとしてとどめようとし始めるだろう。私やこの書物を特別なものとして崇め、ここは聖地になるかもしれない。多くの人々が集まり、自ずとそこには決まり事や長が必要となる。それが集落、村、やがては国となる。初めはうまくいくかもしれないが、やがてその中で対立が起こり始める。もしかすると、他の同じような人々が、その書物や聖地を狙って襲ってくるかもしれない。そうすると、どうだろう。たくさんの血が流れ、命が失われることになる。
分かるかね。そういうものなんだよ。」
と言って、老人はその書物に火をつけた。
見方によっては論点がずれてしまうのかもしれないが、
私はここにある共通するものを感じる
世界は理念であって対象ではない
と彼の本の中に書かれていた
彼の写真から対象そのものよりも、それを含む「世界」を感じるのはだからなのだろう
その証拠に、彼の言葉を知らずに作品を見た私の頭の中に
絶えず「世界」という言葉が浮かんできたのだから
そして、こう続く
理念は無限である。
それにひとつの定義を与えることができたにしても、瞬間的に世界の全体はその定義のかなたにとびすさってしまうだろう。