2011年01月26日

中平卓馬、による記録



今、写真家・中平卓馬の「なぜ、植物図鑑か」という本を読んでいる
ずいぶん前に書かれた本なのだが、
その一言一句が新鮮な鋭さを持ってうちよせてくる
私は吟味しながら言葉をたどる
それらはとてもダイレクトに確信にせまっているように感じる
そして、それは彼の写真においても同様のことがいえるだろう


中平卓馬の写真を初めてじっくりと見たのは、つい先日のことだった

中平卓馬「Documentary」展

ホンマタカシ「New Documentary」展と同日に始まったこの展示は
BLD GalleryとshugoArtsの2カ所で同時に開催されている
展示の写真は同じなのだが、見せ方が違うと感じ方も違う



[BLD Gallery]

真っ白い壁の目線の高さに2段ずつ、びっしりとA4サイズのプリントが貼られていた
植物、猫、ホームレスのおっさん、看板、クラゲ、また植物
と特に珍しいわけでも何でもないものが写っている
同じようなものがくり返し登場したりもする
それらを見ていると「この世にある全てのものは等価値である」と思えてくる
また、あくまでもこれは写真という物質であり、
世界は1枚の写真の中には収まりきれない
フレームの奥に、延々と広がり、更に刻一刻と変化していくのだと感じる
奥に部屋には、昔パリで撮影した写真の展示があった
鳥肌がたってしまうほど、かっこいい
そこには、場所や時代の違いや作者の変化もあるだろうが、
各々に「その場所そのもの」であることを感じた


[shugoArts]

最近のお気に入りだけに絞っての展示らしく、BLDに比べると随分展示数が少ない
更に1つが90×60と随分大きく引き延ばされているため
より1枚1枚の写真にじっくりと向き合うことができる
中平さんの目線にもっと近づく感じだった
作品を見ながら「写真の強さ」という言葉が頭に浮かんだ
それぞれに何か引力のようなものがあって、
それがぐっと目線をつかんでくる
しかも、それは対象となったものだけから発せられているわけでは無いように感じる




彼の「言葉」からも「写真」からも、何かしら同質のものを感じる
この感じは何なんだろうか
単純に考えれば、どちらも彼自身から発せられる「表現」なのだから当たり前といえば当たり前のことだ
しかしそれ以上に、そこには「中平卓馬」という人物を飛び越えた
生モノとしての世界そのものがあるように感じてならない
個人の情や思想を超えたもっと大きな、もっと尊いものがあるように感じられる
それは形容詞化すべきではないことのようにも思える
言葉で断定するには、あまりに複雑で、あまりにシンプルであるから
「中平卓馬」は写真や言葉を媒介としてそれを示そうとする
あくまでも媒介でしかなく
あくまでも媒介であるべきだと言っている
そこに個人は介せずに「記録をすること」、それが表現をすることではないか
しかも、記録することはそのものになることではない
なり得ないのだ
あくまでも、写真は写真であり、言葉は言葉である。



ふと、昔読んだ本に書かれていた短い物語を思い出した

ある老人が泣きながら書物を燃やそうとしていた
何故燃やすのかを問いただすと、彼は答えた
「ここには究極の『教え』が書かれている。私はこの手でこの素晴しい『教え』を燃やさねばならないのだ。」
「何故、そのようなことをするのですか?」
「それはね、この『教え』を人々に伝えるとしよう。そうすると、人々はそれをどうにか確実なものとしてとどめようとし始めるだろう。私やこの書物を特別なものとして崇め、ここは聖地になるかもしれない。多くの人々が集まり、自ずとそこには決まり事や長が必要となる。それが集落、村、やがては国となる。初めはうまくいくかもしれないが、やがてその中で対立が起こり始める。もしかすると、他の同じような人々が、その書物や聖地を狙って襲ってくるかもしれない。そうすると、どうだろう。たくさんの血が流れ、命が失われることになる。
分かるかね。そういうものなんだよ。」
と言って、老人はその書物に火をつけた。



見方によっては論点がずれてしまうのかもしれないが、
私はここにある共通するものを感じる



世界は理念であって対象ではない

と彼の本の中に書かれていた

彼の写真から対象そのものよりも、それを含む「世界」を感じるのはだからなのだろう
その証拠に、彼の言葉を知らずに作品を見た私の頭の中に
絶えず「世界」という言葉が浮かんできたのだから

そして、こう続く


理念は無限である。
それにひとつの定義を与えることができたにしても、瞬間的に世界の全体はその定義のかなたにとびすさってしまうだろう。


2011年01月23日

タマネギの皮をむく


最近、夜になると急に睡魔が襲ってくる
おそらく、ここのところ小さなストレスがたくさんあるせいに違いないと思う
ストレスを感じるに値しない、、というのはちょっと語弊があるかもしれないけれど
自分にとってとても意味のない「どうでもいいこと」なのに
ちくちく、ちくちく、私の頭や心を刺激して
まるで低温火傷のように、気がつくと思ったよりもエネルギーを消耗してしまっているのだ


わたしはどちらかと言うと人付き合いが得意な方ではない
いろんな意味でコントラストがはっきりしすぎていて
とても不器用だと思う
しかも、普通ならば歳を重ねるとともに解消していきそうなものだが、
むしろそれはどんどん明確になり、私自身の個性にもなり得ている
もちろん、それは相対的に私の特異性とも言えるし
私自身がそれ自体をいいとか悪いとかではなく、そのままの事実として受け止めており
わりと好きだったりもする


しかし、少なからず社会に生きながら限られた人々以外とも関わっていかなければならず
その中で多くの「違和感」に出会う


そう、「違和感」なのだと思う


個々それぞれが世界の中心であり(いや、正確には中心であると勘違いして)
各々の感情、思考を軸としながら、それを周囲に繁栄しながら
もしくは影響し合いながら生きているのが、世の中である
そこには数限りない中心があるのだから、そこに常識などというものはあり得ない
そもそも「ふつうはこうだ」という発想自体が、意味を成さないことだと常々思う
言ってしまえば、万事こうでなければいけないということなんてあり得ないのだ
だから「違和感」を感じる人がいて当然だと思っている


私の場合、その「違和感」も強いコントラストとなってしまう
ひどい話かもしれないが、
話をしているうちに、会話の意味どころかだんだん声が遠退いていき、
気がつくと音のでない映像をただ見ているような気分になることさえある
大抵の場合は体が先に察知し、自ずと距離感をもって対処している
便利なのか、損なのか、、、分からないけど。


しかしながら、やはり社会の中ではどうしても関わらざるを得ない時がある
要するに、今がその状態なのである


先日、ふと思った
私のこの(いささか激しい)気性はハッキリ言って欠点である
それは持って生まれたものだ
一度、それ自体を欠点として完全に受け止める必要があるのではないか
そこからしか解決はできないのではないだろうか。


数年前に「バッチフラワーレメディ」というのを勉強した
その効果云々よりも、その体系化されたものの軸となっている思想に魅かれた
それは以下のようなものだ

人はたくさんの欠点を抱えている
それはまるでタマネギのように、何層ものレイヤーになってその人を包んでいる
今、肌で感じる問題があるとしよう
それを解決するために、まず自分が認識する表面にある問題をひとつ、解決させよう
あくまでも外的要因に直接的に対処するのではなく、
自分の一部である外側に張りついたものが何であるか、を認識してその1枚をペラリとはがすことから始める
そのためにそれぞれの花が持つ力を借りるのだ
どういうことかというと、
花にはそれぞれの性質がある
自分が持っている欠点と同じ性質を持った花のエッセンスを自分に取り入れてみる
受入れることでそれら同質のもの同士が響き合い、その欠点自体に含有される良点に変化していく
(全ての事物は相対しており、欠点もしかりなのだ)
真の変化はそこから始まる

簡単に言えば、こんな感じ


とっさに本棚からフラワーレメディの本を引っ張り出し
この自分の欠点としての側面を持つ性質が何なのか
どの花にあてはまるのかを調べた
つまりは、そこが重要なのだと思う
中身のない楽観主義ではなく、
マイナスを掘り下げていく先にこそ、目指すべきものがあるのではなかろうか

タマネギをどんどんむいていくと、、、
実は、むいた部分こそが美味しいのだ!






2011年01月15日

Takashi Homma『New Documentary』


ホ ン マ タ カ シ

というアーティストをこれほど意識するようになろうとは、
正直、1年前には想像もしていないことだった。



2011/1/8より金沢21世紀美術館で始まった、ホンマタカシ『New Documentary』。

「作品を見る」というよりも「体験する」ことに近かった。

「写真」に対して全くもって無知であった(よく言えばニュートラルであった)私が
半年間のワークショップを通して知ったこと、感じたこと、ぼんやりと認識しつつあったことを、一瞬にして、より明確なものとして目の前に表された展示だった。




 

 

 

 

 

※展示会図録より



「写真は説明しすぎると野暮だ」
とホンマさんは言うが、確かにそのとおりだと思う。
よって、作品の説明はしない(どのみち、直接的な言葉によっては上手く説明できない)
上に並べた写真はあくまでもそのイメージの抜粋でしかないので
実際に空間を含めて体感しない限りは、この興奮を伝えきれないと断言できる。


今回、私が全ての作品を見て感じたことをは
それぞれが「写真」という媒体を通して、様々な「イメージ」を与えていることだった

写真は、イメージなのである

しかも「どのように見せるか」によって、イメージは自在に操ることができ、
個々に作品として成立するのだ



展示会図録の冒頭に書かれた文章の中に、スーザン・ソンタグの言葉が書かれている

Photography is, first of all, a way of seeing. It is not seeing itself.

(写真とは何よりも1つの見方であり、見ることそれ自体ではないのだ)


作品によって、この言葉の意味を深く理解することができた。

また、「視覚による認識は知覚に優るのだ」ということを感じる体験だった。


そして、何よりも「ホンマタカシ」というアーティストのスゴさを感じると共に
アーティストであるということがどういうことか、を見せられたような気分だ。
1つひとつのコンセプト以上に、
自分が感じることに対してまっすぐに作品で追究し続ける一貫したその姿勢こそが
作品にある種の強さをもたらしているのだと思う。


ホ ン マ タ カ シ


は日本という国において「写真」の認識に対する『パイオニア』であると思う。





ホンマタカシ『ニュー・ドキュメンタリー』/ 金沢21世紀美術館

ホンマタカシ『Architectural Landscapes』/ SLANT

between the books



 



2011年01月09日

2010年の回想と2011年のはじまり





2010.12.31   19:10



福岡に向かう飛行機から東京を見下ろす

目下には大海原の波のごとく点在した小さな光の粒が見える

その1つひとつが個々のものとして、確かに存在していることを認識はしているが

全てが等しく光を発するただの点として、私の目に等価値に写っている



そんなことをぼうっと考えながら、2010年を振り返る


「人生の本質は変化だ」


と日頃常々に思ってはいたが、それをこんなにも確信を持って感じる事ができたことがかつてあっただろうか。
そして、それは「言葉」におさまりきれない哲学であると強く思うのだ。

これまで随分と遠回りをしてきた私は、何かと過去のことや自分のまわりのことを
行ったり来たり思いめぐらせるくせがついていたけど、
ただ自分が感じるものにだけ集中していくうちに
全てが自然淘汰され、いつのまにか自分が認識している以上に明確になっていく。
こんなにもシンプルで
尚かつ難しいことが他にあるだろう?




必要なことは山のようにあるけど、

恐れることは何一つ無いように思う




2011.1.1   7:45



光に包まれた朝の街を見ながら

私の人生のメインゲームがはじまる予感がした





2010年11月28日

ヒトはなぜ表現したいと思うのか





あらゆる情や思想は生み出されては消えていくものだ

夢が所在のないものであるように

確かにその存在を感じるにも関わらず

その形跡はとても曖昧だ

見ること、もまた同じようなものである



私たちは、連続する瞬間の中でそれをあたりまえに思う

今、目の前に在る世界が生まれては消えていくものであることを知っている


ボコボコと沸騰する泡のように

沸きおこっては消え

沸きおこっては消え

次々にその形を変えていく。


その中で、ふと、自分の中の何かの琴線に触れた時に

潜在的にその消えいくものたちを、どうにか留めようとする。






人にはそれぞれにアンテナがある

絶えずアンテナから外部のたくさんのものを受信し続けている

しかし、そこには自分自身の内なるものを直接的に受信するシステムはないんだと思う

自分の中に生まれてきたものが泡となって消えてしまう前に

何かしらの形に変えて外側へ発信する事で

それを自分自身で受け取り、確認したいのではないか。

外側から受け取った自身の情や思想はその行程を通して

はじめてその所在を持つことができるのかもしれない。


表現したいと思うのは、そういう事ではないだろうか。






「何故写真を撮るのか」

という問いに対して、スティーブン・ショアは

『自分が感動した世界を写真という形で見たいから』と答えたそうだ。

深く納得。




2010年11月27日

ホンマタカシWORKSHOP





ここのところ半年間くらい、写真家ホンマタカシさんのワークショップに通ってました。

写真の面白さとの出会いはさることながら、

それ以上に、ホンマさんをはじめ、ステキな人たちとの出会いが本当にたくさんありました。

最終的に仕上がった作品を自分の手にした時、

自分自身ががんばったことよりも

それらの大好きな人たちへの感謝の気持ちの方が、じんわりとこみ上げてきました。






もう始まっていますが、12月6日まで青山ブックセンター本店にて展示しています。

お近くにお立ち寄りの際は、是非見に行って下さい。



http://www.aoyamabc.co.jp/15/15_201011/_2010_1123126.html









2010年10月30日

Sighifiant



Sighnifiant(シニフィアント)とSighnifie(シニフィエ)

という2つの言葉がある


「Sighnifiant」は表しているもの

「sighnifie」は表されているもの、という意味


例えば「木」というと、私たちはすぐに「木」をイメージすることができるが

その「キ」という1つの(音響)イメージが「Sighnifiant」であり

「木」という観念としてのイメージが「Sighnifie」である






いつもは傘がきらいでめったにささないけれど

さすがに今日は傘を持って出かけた

足が濡れるのは嫌だから、歩くのをやめてバスに乗る

流れていく景色を眺めていると

見ているはずの世界を通りこして、いつの間にか考えごとをしている自分に気がつく


どうして人は人を想うのか

そもそも、「好き」や「嫌い」とは何なのだろう



人の感情というものは空間や時間の中でどこに存在するものなのか

小さなシグナルはたくさんあったように思う

度重なる時間の中で少しずつ

変化していく

もしくは、明確になっていく



言葉で表すという事は

認識するということだ

つまり、「Sighnifie」と「Sighnifiant」の融合ではないだろうか

さらに言えば

言葉に表さなければ

2つを結びつけなければ

その感情は宙ぶらりのまま所在をもつことができないだろう




時として、それが必要な場合もあると思う




2010年09月25日

休息

 



先月、数年ぶりに行ってきた屋久島の写真を眺めると

その数日間が

とても透明で濃い時間であったことを感じる。

それは、フラッシュバックして

現実の私もその空気の中にいるような感覚になる。

人の記憶というものは

次元を超えて在るものだと思う。






こうなりたいというものが何となくあったり

こうであるべきだと思うものが何となくあったり

気がつけば

それらにとらわれてしまうことがしばしばある。


夢中で前に進むことは楽しい。

でも、たまにOVER HEATしてしまう。


そういうのも、嫌いじゃないんだけど。




この夏、突っ走ってきた私に

心地よい秋の風と太陽がふと、何かを思い出させてくれる。

それは、言葉にはできないけど

言葉とかではないけど

はっと、自分の軸を感じる瞬間だったりする。



目の前の景色を懐かしく感じる時

大好きな曲を久しぶりに聞いた時

部屋をラベンダーの香りでいっぱいにした時


そういった瞬間に似ている。



日々の生活の中で点在するその瞬間を

逃さず感じとっていきたい。




成熟しきれていない私は

与えられたサインや記憶の断片により

たまーに、リセットをする。

いつの日か

それ自体が自分そのものになる日がくるのだろうか。



2010年08月03日

考えごと






世界にたくさんある

分からないことや知りたいことを

言葉で理解しようとすると

余計に離れてしまうように思う


確かに目の前にその輪郭は在り

私はそれをとらえているのに

ほんの一瞬

無意識の中で

目や耳を凝らしている時だけに

ちらりと見える


光のようなものだ


或いは、影なのか







2010年07月12日

スパイと失敗とその登場について



「理解とは、見かけどおりの世界を鵜呑みにしないことから始まる。理解の可能性はすべて、ノーと言える能力にかかっているのだ。」





この週末は実に充実した時間を過ごせた



10日ー午前中

久々の岩盤浴で読みかけの「ラディカルな意志の彼方へ」を読む

これは、スーザン・ソンタグの死を追悼し、彼女の思考に基づいて行われたあるシンポジウムをまとめた本である
彼女をよく知る人物たちが、時に彼女の言葉を引用しながら、時に思い出話をしながらその人物像をうっすらと見せてくれる
火照った頭の中に、冒頭の言葉が残った






午後

行きそびれていた落合多武展を観に、ワタリウム美術館へ

彼のユニークな思考は「スパイと失敗とその登場について」とい展名が物語っている


スパイの活動とは南はどこからどこまでだろうかと考える事に似ている。
南に行けばいつかは南極に着き、その後は北に向かう。
南に向かうとは北へ向かう事であるのだ。
スパイの活動は普段目には見えないが、そのスパイが失敗した時に初めて明らかになる。



ということだと語られている。

更に、その末文にはこう続く



アートは自由なものか?というのは重要な問題だ
アートとは新しく星を発見する事に似ていると思う
何万年?前からすでに存在する星を見つけるという事は限りなく自由に近い不自由である
どこかの池で魚をかじっている猫を釣る事のように
1歩と1万歩がくっついていく事だ






「地球上で一番高い所にマンハッタンで行くビデオ」という作品があった

マンハッタンの高層ビルの階段をひたすら上に向かって登る様子を撮られた映像
普段生活をしている場所での日常的な行為と、エベレスト登頂という深淵な出来事がどこかで繋がる夢のような作品、とある


延々に階段を登り詰めていく映像を観ていると、幼い時分の記憶とフラッシュバックする
子供の頃、高いビルの階段を上へ上へ登っていく行為にワクワクした
その先にあるものが何なのか知りたい!という好奇心や希望のようなものと
待ち構えているかもしれない恐ろしい何か!を想像してしまう妄想が入り交ざった
小さくて大きな冒険
今思えば何でもない事が、最高にスリリングだった




それは今でもまだ、私の中のどこかに確実に在る



ひたすらに階段を登っていく映像になんだかドキドキして
しばらく目が離せなかった